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奥 武 山

奥武山公園

那覇の奥武山公園は、いろいろな顔をもっています。
ひとつは、沖縄の「スポーツの聖地」。奥武山総合運動場は、昭和34年6月(1959年)に開設された沖縄県内初の運動公園です。3万人収容可能な野球場「沖縄セルラースタジアム那覇」、武道館、弓道場、プール、テニスコート、多目的広場等があり幅広く利用されています。那覇市内の小中高校を卒業生であれば、競技大会の応援で、一度は訪れたことがあるのではないでしょうか。数々の高校野球の名勝負が繰り広げられた球場は、今や読売ジャイアンツが春のキャンプをはり、スタートの年から原監督をはじめ、多くの選手のみなさんが、沖宮にご参詣にみえられました。
もうひとつは、「お祭り」ではないでしょうか。「那覇まつり」、「産業まつり」、「大琉球神楽」など、大小さまざまな催事が開かれ多くのひとびとが集まっております。
ところで、みなさんは奥武山には、3つの神社があることをご存知でしょうか。世持神社、護国神社、そして沖宮です。このことからも、尊い地であることが伺えます。

奥武山が公園になったのは明治34年(1901年)、東宮(皇太子殿下)のご成婚を記念して、沖縄初の運動公園として開設されました。戦後になり公園全体が各施設共々に整備され、明るくなり、散歩・ピクニック・スポーツ・運動を楽しむ多くの人々で賑わっております。
奥武山は、沖縄の窓口である那覇空港から那覇中心の県庁までのエリア(NAHA CITY FRONT)の中心に位置し、周辺も含め注目されております。今後は、更に奥武山公園で、人々に多くの安らぎ・癒し・元気・喜びを与えることができる「祭り」「イベント」が増えていくと思われます。

奥武山の歴史

奥武山の歴史
現在は、橋や埋め立てにより陸続きになっている奥武山は、その昔、漫湖の入江に浮かぶ島でした。つまり、歩いては行けませんでした。琉球王国時代の奥武山は、美しい景勝地で、江戸時代の有名な絵師、葛飾北斎が、琉球八景のひとつとして描いているほどです。
1710年頃には、心海上人(しんかいしょうにん)が、護国寺の隠居寺である龍洞寺(りゅうとうじ)を奥武山に創建したという記録があります。弁財天堂の蓮池と浮見堂があったという記録から、花鳥風月が麗しい趣ある寺社であったことが想像されます。
1721年の「中山伝信録」には、「奥武山は、もと蛇のすみかであったが、僧心海がここを開いてから蛇は海を渡って逃げてしまった。堤を築いて潮をせき止め、泉をひき松を植え、五・六軒の家を構えた。前に沼があり、小亭が二つ。仏桑花やソテツなどをたくさん植えてある」との記録があります。

また、こんな民話もございます。
琉球のその昔、ミミズは奥武山にのみ棲んでいたという。ある十五夜、ミミズが揃って月見を楽しんでいたところ、長老ミミズが涙ながらにこう言った。「奥武山のミミズは増えすぎた。このままだと、食べる土が絶えてしまう…」と。これを聞いた若ミミズたちが悲しみのあまり、一斉に泣き始めた。この騒動を聞き付けた青大将が言った。「渡地(わたんじ)に渡れば土はたくさんある」。これは渡りに舟とミミズたちは、フクギの葉を舟に漕ぎ出した。それから、土を求めてミミズは琉球のすみずみにまで広まったそうな。